製品案内

 

堺刃物の歴史

 

16世紀かっての堺は東洋のベニスと呼ばれ日明貿易や南蛮貿易の交易拠点として中世

のアジア随一の貿易都市として繁栄しました。

のちにこの頃の堺は黄金の日々として語り継がれ、(物の始まり何でも堺)といわれる由縁

にもなりました。

堺打刃物の起源は遠く世界最大の前方後円墳で有名な仁徳御陵築造の頃にさかのぼる。

当時この大規模な工事の為に 必要な土木器具のクワや鋤が大量に必要になりそれらを生

産する為に全国から鍛冶職人が集まり集落をつくり住みついた。一方、天宝年間になるとポ

ルトガルからタバコが伝来し人々の間で広まりそれに伴いタバコの葉をきざむ包丁の需要も

高まった。そこで堺の鍛冶職人達がその製造に着手し、その製品の優秀さが当時の江戸幕

府に認められこれを幕府専売品として堺極と刻印し全国に広めていった。

時は流れてタバコの生産も機械化されタバコ包丁の需要が減ってくると職人達はその技術

を生かし料理用包丁の出刃や柳刃、薄刃、などを製作しその伝統的な製造方法と優秀な技

が認められ昭和57年に伝統的工芸品に指定され全国の料理人から幅広い支持を受けて

います。

 

タバコ包丁

 

安来鋼と玉鋼

はじめに以下の文章、写真などは日立金属鰍ニ島根県安来市にある和鋼博物館の方々に貴重な資料を提供して

頂き掲載しております。これらの資料は掲載許可が必要ですので無断で複製、改変、配布等は禁止させて頂いて

おります事をご理解、ご協力よろしくお願い申し上げます。              叶ツ木刃物製作所 広報部より

 

YSS(ヤスキハガネ)とは島根県の安来市にある日立金属活タ来工場で製造されている非常に高品質な鋼材です。

その昔、中国山地より産出する砂鉄は不純物が極めて少なく日本刀などを製作するのに必要不可欠な物でした。

貴重な砂鉄を鋼に精錬する為に日本古来の伝統技法であるタタラ製法が発展し千有余年に及ぶ刀匠の伝承技術

により鍛えれ日本刀に仕上げられました。日立金属安来工場で製造されている安来鋼はそれらの技術を現在に継

承し、発展と進化を遂げ今やYSS(ヤスキハガネ)は日本の高級刃物には欠かせない物になっています。

日立金属
日立金属梶@安来海岸工場
            

タタラ製法とは日本古来の製鉄法のことを言います。我々の祖先が営々として築き上げた日本独自の製鉄法で、千年

以上の歴史を持つ技法です。

タタラという言葉は元来ふいごを意味するといわれ非常に古い言葉で、日本書記に神武(じんむ)天皇のお后になる、

媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめ たたら いすずのひめの みこと)のお名前が出て来ます。

蹈鞴と書いてタタラと読ませていますが蹈鞴は踏みふいごの事です。このお姫様は出雲の神、事代主命(ことしろぬし

のみこと)の姫と言われ、我が国の鉄の主要な産地となる出雲の姫の名前に蹈鞴がついている事はタタラを探求する

にあたって非常に興味深い事であります。

タタラのしくみ

たたら製法は現在でも生きています。島根県奥出雲町にある日刀保(にっとうほ)たたら場で年に数回しか操業

されませんが伝統は確かに継承されています。現在あるタタラは江戸時代中期に完成してもので、近世タタラ

製鉄法と呼ばれています。下記の写真はその外観を示すもので、中央に高さ約1.1m、幅約1m、長さ約3m

の炉があり、その両側に立っているのが風を送る鞴(ふいご)ですが、17世紀の終わり頃に発明されたもので

天秤鞴(てんびんふいご)と呼ばれています。この炉の内部には深さ3mに及ぶ精巧な地下構造が築かれてお

り、高温維持と防湿のために綿密な工夫が施されています。

ふいご
和鋼博物館に展示されている天秤鞴(てんびんふいご) 資料提供 安来市 和鋼博物館/日立金属株式会社

 

タタラ製鉄の方法

タタラ製法は鉄原料として砂鉄を用い、木炭の燃焼によって砂鉄を還元し、鉄を得る方法です。タタラ製法には

2種類の方法があり砂鉄からすぐに鋼を作るケラ押し法(直接製鉄法)もう1つはズク(銑鉄)を作る事を目的と

するズク押し法です。

ケラとは鋼のもとになる塊で、これは叩いたり、伸ばしたりして鍛えることができ、しかも焼き入れをして硬くする

こともできるので日本刀をはじめ刃物、工具などに用いられてきました。

ズクは炭素量が高く、溶け易いので鋳物にも使用されますが大部分は大鍛冶場(おおかじば)に運ばれて炭素

を抜き、左下鉄(さげがね)と呼ばれる鋼や、さらに炭素を下げて柔らかくした包丁鉄(軟鉄)にされました。

ケラ
炎より取り出せされているケラ 資料提供 安来市 和鋼博物館/日立金属株式会社

ケラ押し法

ケラ押し法は、真砂砂鉄の採れる中国山地の北側で主に稼動した方法で、操業開始から終了までに三昼夜、

約70時間かかるので三日押しともいいます。

まず低融点で還元性のよい籠り砂鉄を投入し、次に木炭を投入して燃焼させ、ノ口(鉄滓)を作ります。その際

発熱反応によって炉内の保温がよ良くなります(籠もり期)。

さらに炉温を上げると、ノ口だけでなくズク(銑鉄)もできてきます(籠り次ぎ期)。

次第に真砂砂鉄の配合を増していくと、ケラ種ができ、炉況は活発になり、炎は山吹色に高く輝きます。

そして、炉が次第に侵食される一方、ケラが成長します(上がり期)。

さらに真砂砂鉄の装入を増して、ケラを大きく成長させますが、このころになると炉壁はやせ細り、これ以上の

操業に耐えられなくなり、タタラの作業を終了します(下り期)。

以上が1操業で、一代(ひとよ)と言います。

タタラ製法
タタラの操業風景
資料提供 安来市 和鋼博物館/日立金属株式会社

 

一例を挙げると一代に装入する砂鉄が13トン、木炭約13トンに対しできるケラは2.8トン、ズクは0.8トン。

したがって、鉄の装入砂鉄に対する歩留りは28%と現在から見れば非常に悪い値でした。

このケラからの中から選別された良い部分は玉鋼(たまはがね)といい、日本刀など高級刃物の原料に使用

されましたが、2.8トンのケラからとれる玉鋼は1トン以下という僅かなものでした。したがって、当時から玉鋼

がいかに貴重なものだったか理解して頂けると思います。

玉鋼一級品
和鋼博物館に展示されている玉鋼1級品
資料提供 安来市 和鋼博物館/日立金属株式会社

日本刀と和鋼

日本刀は富士、桜とならび日本を象徴するものでした。また、日本刀は武士の魂であり、大和心を具現化

したものであり、入魂の芸術と云われてきました。

実際、MITのDr.Stanley Smith氏は、日本刀は金属の内部性質から発する最高の治金的芸術品であると

ほめたたえています。日本刀は折れず、曲がらず、良く切れるという武器本来の機能を備えているのみな

らず、姿の良さ、刃文(はもん)、沸(にえ)、匂(におい)、映り(うつり)や地肌の不思議な美しさなど、神秘

的ともいえる荘厳な美を持っています。これは日本刀1000年の歴史の中で和鋼の特質を日本刀の中に

最大限活用し、表現した結果生まれたものです。

タタラの衰退と復活

我が国近代製鋼技術の草分けは陸海軍の諸工廠でした。明治15(1882)年、東京海軍造兵廠で出雲、

石見の玉鋼及び包丁鉄を用い、るつぼ鋼の製造を開始し、明治23(1890)年には横須賀工廠

に酸性平炉を建設し、装甲板、砲身などの製造を開始します。陸軍は明治22(1889)年に大阪

造兵廠で、るつぼ鋼による工具鋼や砲弾などの製造を始めます。

洋鋼は明治の初めより和鋼・和鉄の生産量の約5倍(約5万トン)輸入されていましたが、日清、

日露戦争で更に急激に増加します。何故ならタタラ製鉄のみではとても需要も急増に追いつけ

ず国産洋式製鉄もまた軌道に乗っていなかったからです。山陰のタタラ師達は西洋技術の取り

入れや合理化に懸命の努力をしますが、経営は好転せず、新市場を求めて陸海軍へ積極的に

働きかけ、明治30年代までは何とか売上を増やすことが出来ました。しかし日露戦争後の反動

恐慌と八幡製鉄所の本格操業により、次々と廃業を余儀なくされ、第一次世界大戦後の大正14

(1925)年、ついに最後のタタラの火が消えます。

昭和に入り、15年戦争が始まると、軍需要をうけて靖国タタラ、叢雲タタラなど一時期タタラは復

活しますが、戦後は廃滅します。昭和45(1970)年、タタラ製鉄技術の消滅を恐れて、日本鉄鋼

協会主導の下にタタラ復元実験が行われましたがタタラの復活をねらったものではありませんでし

た。しかし、昭和52(1977)年、日本刀の原料としての和鋼が払底するに及び、文化庁後援のも

とに、日本美術刃剣保存協会が日刀保タタラを建設し、現在も冬季に操業して各地の刀匠に玉鋼

を提供しています。こうしてタタラは再び復活を遂げました。

 

以上で安来鋼と玉鋼のお話を終了致します。掲載の文章は日立金属株式会社サイト内の(たたらの話)

より抜粋させて頂いております。又資料をお貸し頂いた日立金属/和鋼博物館様に感謝申し上げます。

 

 

堺名所めぐり

与謝野晶子は、明治11(1878)年に堺の和菓子商駿河屋の三女として生まれました。12才の頃から古典文学に

親しみ、鉄幹との出会いをきっかけに(情熱の歌人)として近代短歌の開花をもたらしました。

(みだれ髪)をはじめ数多くの歌集を刊行し、(君死にたまふこと勿れ)や(山の動く日)そして源氏物語の現代翻訳

など次々に作品を生み出しました。パリで様々に刺激を受けた晶子は、女性の自立をめざす評論活動や文化学院

創立にかかわるなど教育にも力を尽くし、幅広い分野の業績を残しました。大正末以降になると各地を旅行して歌を

詠むことが活動の中心となりました。昭和10(1935)年に鉄幹が亡くなった後も新新訳源氏物語を刊行するなど、

生涯文学者であり続けました。晶子が昭和17(1942)年に亡くなってから刊行された遺稿集(白桜集)には、夫の

鉄幹への思いが綴られています。与謝野晶子は、文学者の面だけでなく与謝野鉄幹の妻であり、11人もの子供

を生み育てた母親として生活者の魅力をもった女性でした。

与謝野晶子
与謝野晶子 肖像写真 文化学院所蔵

西本願寺堺別院

神明町東3丁

阪堺線神明町駅下車東へ約5分

覚応寺

九間町東3丁

阪堺線神明町駅下車東へ約5分

府立泉陽高校内

車之町東3丁

南海高野線堺東駅下車北へ約10分

(注) 見学は開校時に限る

生家跡

甲斐町西1丁

阪堺線宿院駅下車北へ約2分

 

 

旧三和銀行堺支店前

甲斐町東1丁

阪堺線宿院駅下車北へ約3分

浜寺公園内

浜寺公園町4丁

阪堺線浜寺駅前下車西へ約10分

羽衣学園短期大学

浜寺南町

南海本線羽衣駅下車東へ約10分

中央図書館

大仙中町18

JR阪和線百舌鳥駅下車西へ約12分

大仙公園内

大仙中町

JR阪和線中百舌鳥駅下車西へ約12分

堺市民会館

翁橋町2丁

南海高野線堺東駅下車南へ約7分

堺女子短期大学内

浅香山町1丁

JR阪和線浅香山駅下車西へ約5分

少林寺小学校

少林寺町4丁

阪堺線寺地町駅下車東約5分

堺市立女性センター前

宿院町東4丁

阪堺線宿院駅下車東へ約7分

賢明学院中学校等学校

堺市霞ヶ丘町4丁

南海バス霞ヶ丘から東へ徒歩約3分

上記情報の詳しいお問い合わせは 社団法人 堺観光コンベンション協会

堺市戎島町3丁22−1 電話072−233−5258 http://www.sakai-tcb.or.jp

(注)上記掲載の資料は掲載許可が必要です無断で複製、改変、配布等はできません。


百舌鳥古墳群は4世紀末頃から乳岡古墳が築造され、次に履中陵古墳・大塚山古墳→仁徳陵古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳→

反正陵古墳・ニサンザイ古墳の順に築かれたものと考えられます。

ここで使われた埴輪を焼く窯のひとつが御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある窯跡です。5世紀中頃の築造と考えられ、いまの

ところ百舌鳥古墳群で発見されている唯一の埴輪窯です。しかし、百舌鳥古墳群で使われた大量の埴輪が本窯で全て作られたも

のではないことも確かです。まだ発見されていない窯跡がたくさんあると思われます。

世界三大古墳のひとつ仁徳陵古墳は百舌鳥耳原中陵(もず みみ はら なかの みささぎ)とも言われ、この辺りは古くは百舌鳥

野と呼ばれていました。この百舌鳥野を中心に東西・南北約4キロの範囲に百舌鳥古墳群が広がり、多くは古代の姿をとどめてい

ます。現在、歴史的遺産が水や緑とともに、市民生活に潤いと安らぎをもたらす存在であることも再認識されてきています。

又、東洋のベニスと称せられ中世の環濠・自治都市として知られた昔の堺は、阪堺線高須神社駅辺りから御陵前駅周辺の約3キロ

大道筋を中心に東西約1キロで、西は海に接し他の三方は濠をめぐらせていました。この地域は中世の名残の社寺旧跡などが多く

遺っています。これら堺の歴史と文化を総合的に鑑賞するには、仁徳陵古墳に接する大仙公園内の堺市博物館をたずねてください。

仁徳陵古墳は周囲2718m、面積464124uの世界最大級の前方後円墳で1500年の昔、堺に築造されました。

エジプトのクフ王のピラミッド、中国の奏の始皇帝陵と並べられ、世界3大古墳の一つといわれています。

偉大な先人に足跡は、世界の誇り、そして数多くの文化遺産は、歴史の生き証人でもあります。

仁徳陵古墳(前方後円墳)

1  反正陵古墳 (前方後円墳) 北三国ヶ丘町2丁
2  天王古墳 (方墳) 北三国ヶ丘町3丁
3  鈴山古墳 (方墳) 北三国ヶ丘町2丁
4  仁徳陵古墳 (前方後円墳) 大仙町
5  永山古墳 (前方後円墳) 東永山園
6  丸保山古墳 (前方後円墳) 北丸保園
7  菰山古墳 (円墳) 南丸保園
8  樋の谷古墳 (円墳) 南丸保園
9  銅亀山古墳 (方墳) 大仙町
10 狐山古墳 (円墳) 大仙中町
11 竜狭山古墳 (前方後円墳) 大仙中町
12 孫太夫山古墳 (前方後円墳) 百舌鳥夕雲町2丁
13 収塚古墳 (前方後円墳) 百舌鳥夕雲町2丁
14 鏡塚古墳 (円墳) 百舌鳥赤
15 塚廻古墳 (円墳) 百舌鳥夕雲町1丁
16 源右衛門山古墳 (円墳) 向陵西町4丁
17 大安寺山古墳 (円墳) 大仙町
18 茶山古墳 (円墳) 大仙町
19 桧塚古墳 (前方後円墳) 石津北町
20 西酒呑古墳 (円墳) 旭ヶ丘南町2丁
21 東酒呑古墳 (円墳) 旭ヶ丘南町3丁
22 七観古墳 (消滅) 旭ヶ丘中町4丁
23 七観音古墳 (円墳) 旭ヶ丘北町5丁
24 寺山南山古墳 (方墳) 上野芝町1丁
25 覆中陵古墳 (前方後円墳) 石津ヶ丘
26 旗塚古墳 (前方後円墳) 百舌鳥夕雲町3丁
27 グワショウ坊古墳 (円墳) 百舌鳥夕雲町3丁
28 長塚古墳 (前方後円墳) 百舌鳥夕雲町2丁
29 坊主山古墳 (円墳) 百舌鳥赤畑町2丁
30 万代山古墳 (円墳) 百舌鳥赤畑町5丁
31 カトンボ古墳 (消滅) 百舌鳥赤畑町5丁
32 御廟山古墳 (前方後円墳) 百舌鳥本町1丁
33 鎮守山塚古墳 (円墳) 百舌鳥赤畑町5丁
34 御廟表塚古墳 (前方後円墳) 中百舌鳥町4丁
35 乳岡古墳 (前方後円墳) 石津町2丁
36 経堂古墳 (円墳) 南陵町4丁
37 かぶと塚古墳 (円墳) 上野芝町6丁
38 大塚山古墳 (消滅) 上野芝町4丁
39 銭塚古墳 (前方後円墳) 東上野芝町1丁
40 いたすけ古墳 (前方後円墳) 百舌鳥本町3丁
41 吾呂茂塚古墳 (消滅) 百舌鳥本町3丁
42 善右ェ門山古墳 (方墳) 百舌鳥本町3丁
43 城ノ山古墳 (消滅) 百舌鳥西之町1丁
44 定の山古墳 (前方後円墳) 百舌鳥梅町1丁
45 赤山古墳 (消滅) 百舌鳥西之町1丁
46 文殊塚古墳 (前方後円墳) 上野芝向ヶ丘町1丁
47 湯の山古墳 (消滅) 百舌鳥陵南町2丁
48 飛鳥山古墳 (前方後円墳) 百舌鳥陵南町3丁
49 平井塚古墳 (消滅) 百舌鳥陵南町3丁
50 正楽寺古墳 (円墳) 百舌鳥陵南町3丁
51 ドンチャン2号墳 (円墳) 百舌鳥陵南町3丁
52 こうじ山古墳 (消滅) 百舌鳥陵南町3丁
53 こうじ山古墳 (円墳) 土師町
54 ニサンザイ古墳 (前方後円墳) 百舌鳥西之町3丁
55 聖塚古墳 (円墳) 学園町

(注意)  これらの古墳にの中には、宮内庁管轄、府、市管理、民有地等があり、立ち入ってはいけない区域が

       ありますので見学の際には充分ご注意して下さい。

上記情報の詳しいお問い合わせは 社団法人 堺観光コンベンション協会

堺市戎島町3丁22−1 電話072−233−5258 http://www.sakai-tcb.or.jp

 

堺茶室案内

堺茶室

伸庵

伸庵

 

登録有形文化財(第27−0205号)

数奇屋普請の名匠といわれた抑木魯堂が粋をこらして建てた茶室で、もとは東京芝公園にあつたものです。
魯堂は、明治、大正、昭和を通じて棟領として天下一といわれただけでなく、松永耳庵翁など、大茶人とも深く交わり、各所に名茶席を残しています。
建物は茶室を含めて十室の和室を持つ風雅な二階建てで、多人数の茶事を催すことが出来、移築に際して立礼席も設けられました。
この伸庵は、福助株式会社から寄贈されたもので、昭和五十五年十月に大仙公園内の堺市博物館に隣接する地に移築されたものです。

 

黄梅庵

黄梅庵

 

登録有形文化財(第27−0204号)

日本の電力開発に尽力し、また、明治、大正、昭和の三代に亘り、茶道の四天王と称された故松永安佐衛門(耳
庵)翁が、昭和二十三年もと奈良県高市郡今井町の今井
宗久所領の茶室を、小田原の地に再興されたもので、屋敷内の梅実が黄熟する頃に完成したので横梅庵と名づけ
天下の茶人を招いて茶味三味の日々をすごしておられた
茶室です。
当庵は八畳の広間に三畳下座床の茶室が接続し、勝手水屋等が附加されている約八十平方メートルの建物です
堺市の市制九十年記念事業の一環として、相続人の松永
安太郎氏から寄贈をうけ伸庵とならんで、昭和五十五年十月に移築され、三十三万平方メートルの大仙公園内に
ゆかりの名席が期せずして再現されました。

 

営業時間、利用料金など上記情報の詳しいお問い合わせは 社団法人 堺観光コンベンション協会

堺市戎島町3丁22−1 電話072−233−5258 http://www.sakai-tcb.or.jp


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